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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の六十四
【 仏と霊と妖怪と 】

 『お爺さんが亡くなって三週間たったけど一回も夢見んがや。わたしゃ薄情なんかね、それともお爺さんが薄情なんかね』夫婦共に七十八歳。元気なおばあちゃんとは裏腹に、おじいちゃんは十年以上も前から脳梗塞を患い入院生活だった。三週間前にそのおじいちゃんの葬儀を執り行なわさせてもらった。そのおじいちゃんの三七日のお参りに参詣したときの会話である。

 『どっちも薄情なわけじゃないわいね。十年以上も看病しとったんやし、婆ちゃんも爺ちゃんも十分ながや。爺ちゃん…ご苦労さん、ありがとうって言うとるわいね』そうお話ししてお参り宅を後にした。

 一週間後、四七日のお参りに伺った。『こんにちは』玄関の戸を開けたとたんに、中からおばあちゃんが飛び出してきた。『ご坊さんご坊さん!!』えらい剣幕である。『爺さん夢に出てきた!!』興奮気味におばあちゃんが言った。『良かったじ』そう言おうとした私より先に『爺ちゃん化けて出てきたんかね!迷とるがかね!』畳み掛けるように言葉が続いた。

 おいおい、おばあちゃん…。あんた先週『なんて薄情なババやろ』って言うとったとこじゃんか、夢にも出てこんと言って文句も言うてたし、それなんに、夢に出てきたとたんにコレかい…。じいちゃん幽霊になったり妖怪になったり。それはないんじゃないかいね。夢見んかったら見んで文句言うし、見たら見たで文句言う。本当に困ったものである。

 ただ一般的に亡くなった人に対する意識は、多かれ少なかれこういったものではないだろうか。『死』と云う辛く悲しい出来事を忌(い)み嫌い畏(おそ)れるあまり、亡くなった人を幽霊や妖怪にしてしまう。故にそれを修(おさ)めるために供養と称して僧侶に読経をお願いする。

 浄土真宗には『霊』と云う考え方や言葉はない。故にその『霊』が『祟(たた)る』と云う考え方もない。なぜなら、亡くなった人はすべてこの娑婆(命の生きる世界)を支えている仏ととらえるからである(小話 お荘厳・2参照)。

 例えるなら『死』は人を『歴史』にすると言えるだろう。ここで言う歴史とは、命の積み重ね。想いや願い、技術や知恵の積み重ねのことである。

 親が子を想う心が、その親が亡くなったからといって消えてしまうわけじゃない。それは、友を想う心も、妻や夫、恋人を想う心も同じである。遠い未来に願いをかけて亡くなった人の願いも無くなりはしない。願いは願いとして受け継がれ伝えられていく。人のあみだした技術も知恵も無くなったりはしない。技術や知恵もそれをあみだした人が亡くなっても、脈々と新しい技術や知恵と形を変えながら積み重なっていく。これらすべての積み重ねの上に私たちは『今』を生きている。この積み重ねられた想いや技術や知恵を『歴史』と呼んでみたのである。

 歴史は祟らない、歴史は幽霊や妖怪ではない、歴史は一個人にとどまらない、歴史は畏れ忌み嫌うものではない。『歴史』は、私たちにさまざまなことを教え学ばせ導く。この歴史を浄土真宗では『仏』と呼ぶのである。

 故に浄土真宗はきっぱりと言い切る。死は人を仏にすると。人は亡くなったら仏になるのだと。

 浄土真宗のお仏壇に故人の写真を飾らないのも、影膳をしないのも、お墓を阿弥陀如来になぞらえているのも、すべてこのことが理由である。

 月参り。法事。お墓参り。通夜や葬儀。その他のすべての仏事ごと。それらがある理由は、娑婆に生きている私たちが、この仏の中で生きていることを意識させ、忘れないためにある。

 忘れずに…そこから学び教わり、問うて聞き考え、誰も代わることの出来ない自分の人生をしっかりと歩んでいくために。

釋 完修
合掌
[2012/04]

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