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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の五十九
【 身の丈(たけ) 】

 松井秀喜、鈴木一郎。ともにゴジラ、イチローの愛称で呼ばれるこの二人はよく比較される。ともに日本の野球界を背負う選手でありながら、それを捨てアメリカに渡り、その身一つでメジャーリーグに挑戦した二人。そのメジャーリーグでも、第一線の選手となったのだから無理のないことである。

 長く松井は努力型、イチローは天才型と称された。武骨な松井に対して、スマートさに長けたイチローならではなのだろうが…。しかし、人が天才と呼ぶイチローも、誰も見ていないところでの血の滲むような鍛練や日々の練習を決して欠かさないことは、今では野球ファンなら誰もが知っていることである。

 スポーツ界において、日本人は圧倒的に不利である。体力、体格、筋力において欧米人との差は歴然としている。しかし、その不利の中でも、松井やイチローのように第一線で活躍している人も決して少なくない。サッカーしかり、テニスしかり、バスケット、体操、水泳等々…その中の誰もが、日々惜しむことのない鍛練・修練を積んでいることは言わずと知れたことである。そしてその鍛練・修練はまず『己(おのれ)を知る』と云うところから始まっているのである。今の自分に何が出来て何が出来ないかを知る。それは、自分の能力を過大評価も過小評価もせずに、真摯に受け入れると云うことに他ならない。まず、そうしなければ、次に自分が何をしたら良いのか?どんな練習や鍛練をしたらいいのかが決して見えてこないからである。長所を伸ばし弱点を鍛練する。そしてその弱点をも長所に変えていくほどの鍛練。気の遠くなるほどの練習の積み重ね。地道な努力なくしては、決して一流と呼ばれる選手になることはない。

 話はそれるが、この練習や鍛練を…毎日毎日、来る日も来る日も…ずっと続けていける人を『天才』と呼ぶのだと思う。

 スポーツの世界において、圧倒的な体格差や年齢からくる体力・能力の低下はその人自身を闇に落としてしまう。何をすればいいのか?どうすれば良いのかが見えない世界に落ちてしまう。しかし、その闇に光を当てる道も、実は始めの一歩である『己を知る』と云うことにまた戻ってくる。それほど『己を知る』と云うことは重要で大切なことなのである。

 それは何もスポーツの世界にだけに言えることではない。あらゆる世界・業界…言うなれば人の人生…生き方にも言えることである。

 『己を知る』…

浄土真宗のものの見方で言い換えれば…

『身の丈(たけ)を知る』と言えるだろう。身の丈。文字通り自分の身長のことである。しかし、この身の丈は『こころ』の在り方を示している。自分の身の丈を考えず、ずっと背伸びをしていれば辛く苦しくなる。かといってずっと屈んでいても辛く苦しくなる。自分の身の丈で立っていることが、一番落ち着くはずである。背伸びをしていることを『見栄をはる・過大評価する』という。屈んでいることを『卑下する・過小評価する』という。見栄をはらず卑下もしない。過大評価も過小評価もせず、ありのままの自分を認める。長所も短所も…。良いところも、悪いところも。好きなところも、嫌いなところも。すべて…。

このことが、『生きて行く』ということの、まず基本だと思う。

 自分の丈を知れば…

自分が見えてくる。自分が見えてくれば、いろいろな事が見えてくる。長けているところも劣っているところも見えてくる。長けているところは伸ばせばいい、劣っているのなら補えばいい。過ぎているなら削ればよいし、足りないのら足せばよい。

好きな事も嫌いな事も見えてくる。

したくなくても、しなくちゃならない事も。

したくても、出来ないことも。

伝えておかねばならない事も、伝えてもらわなければならない事も。

 自分の丈を知れば…

まわりが見えてくる。まわりが見えれば、いろんな事が見えてくる。一人で生きているわけではないことも、一人で生活が出来ているわけではないことも。意識するしないにかかわらず、多くの人の『おかげ』の中にいることが見えてくる。米一粒、魚一匹自分でどうにかしているわけではない。茶碗一つ湯飲み一つ自分で作ったわけじゃない。衣・食・住…そのどれをとっても、自分一人では何一つ出来ないちっぽけな存在…そんな自分が見えてくる。

 こんなお話があります。八つ違いの老夫婦。旦那さんは八十歳。奥さんは七十二歳。ある時奥さんが風邪をこじらせ十日ほど寝込んだそうです。夏でした。暑さも手伝って熱のある奥さんは汗まみれです。自分も含めて、日に何回も着替えなければなりません。当然洗濯物はたまってきます。

 旦那さんは洗濯機を回しました。中庭で洗濯物を干していると、ふと背中に視線を感じました。振り返ると、そこには手を合わせて座っている奥さんがいました。

どうした?苦しいのか?と聞く旦那さんをよそに一言…。

『ありがとう。じいさんに洗濯させてしもうた。私の腰巻き洗わせてしもうた。ありがとう…ありがとう』

 旦那さんは愕然としました。

『五十年近く連れ添ってきて、わしは一度も婆さんにありがとうと言ったことなどなかった。なのにたった一度、それも仕方なくばぁさんの腰巻きを洗濯しとる。こんなワシにありがとうと手を合わしとる』『なんとワシはダラやったんやろ。今までなんと偉そうやったんやろう。』

 自分を拝む奥さんを見て涙が止まらなくなったそうです。そして泣きながら旦那さんはこう思ったと言っていました。

『一人で、家長として何でもかんでも俺がやってきたと思うとった。だが違ごうとった。フンドシひとつ…自分で洗えん…洗ろうてもろとった、ちっぽけな者やった。婆さんが寝込んでくれて良かった。そうでなければ、自分の小ささに気づかんかった。本当に良かった死ぬ前に気づいて…』

 おじいさんの気づいた『自分の小ささ』…。それは、なにも自分を卑下した思いや、過小評価した思いではありません。古語に『立って半畳、寝て一畳。どんなにお金や地位があったって、人間なんてそんなもんだ』とあるように、ある意味人間の本質、生き方の本質に気づいたと言えるのではないでしょうか。

 『おじいさんの気づいた小ささ』こそが、本当に人や自然に『ありがとう』と言える『こころ』を生み出すのだと思うのです。自分の身の丈…小ささに気づきながら、一歩一歩生きて行くなら……人は人として成長して行ける。歳を重ねるとはそういう事だと思うのです。

 『みのたけ』たった四文字のこの言葉は、たった四文字だけれども、その意味は限り無く深い意味を持ちます。

 今晩、私も含めて、ゆっくりと『みのたけ』をはかってみませんか?

釋 完修
合掌
[2012/01]

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